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戦災戦士’sコラム | 明寿会 | 川崎市 介護事業所

2016年10月の記事

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    ~それは全国44万人の戦争未亡人の中の一人だった~

    親子心中を企画したおふくろがいた。

    小学校低学年の頃、1年生か2年生。

    敗戦間もない頃の夏の真夜中に起こされてお袋と宮崎県日向市の伊勢ヶ浜へ向かった。

    真っ暗な新月、顔が見えない月も出ていない。

     

    しばらく歩くと海鳴りが聞こえてくる、響いてくる。

    暗闇にゴーッ、ゴーッという。

    道の周りは田んぼでカエルが合唱。

    数百匹のゲロゲロ。

    自分には坊主の読経のように感じた。

    ナンマイダー、ナンマイダー。

    1時間近く歩くと、浜までの一本道。

    蛍がいた。

    なんでこんな所を歩くのかと思っていた。

     

    しかし暗闇で強く手を握り、何も言わない暗闇のお袋から、何か覚悟をしている感じは伝わってきた。

    振り返るとそれまでも電気のソケットに手を入れようかなどと、おかしなことを言っていた。

    新月の暗闇、私は蛍を集めたいとお袋にちり紙を要求。

    両手で作った袋に何匹かを集めると、暗黒の中に光が浮かび上がった。

    ほんのりと、ぼーっと。

     

    そこから二人の人生がUターンした。

    死の道から逆行して生きることになった。

    お袋の気持ちが変化した。

     

    海の底から、真っ黒な道を間借りの部屋へ二人で帰った。

    誰も知られずに。その後、お袋は活動的になり、看護婦を目指した。

    私を置いてきぼりにして、必死になった。

     

    その後にも寄宿先の親戚の子どもの耳があたり、その子は自分の母親に訴えた。

    そこを出されると生きていけない。

    私はおふくろに左耳を潰された。

     

    しかしおふくろは二人生きるためであった。

    わたしは今でも左耳が不調。

    当時の死から引き返しの思い出の刻印でもある。

    そのころの記憶のキーワードは「新月暗黒の一本道、海鳴りと読経、蛍、それから引き返した。」

     

    *こんなことを喋ることは嫌である。

    お袋は亡くなり、私の子どもや孫は知らない。

    しかし日本は71年前に戦争し、敗戦して国民は大変な苦しみを味わった。

    多くの高齢者が二度とこんな事は若い人たちに経験させたくないと考えている。

    だから喋るのである。

    母子家庭でいじめられ、人にわからない左耳の後遺障害、学校や会議でも苦労した。

    あえて治療をしなくて良かった。

    戦後の苦労を忘れないから。

    このあと必死で生きてきた。

    医者になっても真剣に生きてきた。

    眼前の敵、世の中の敵との戦い、いじめや貧乏、病気との闘いをやってきた。

     

    世の間違いには激しい怒りと憎しみを持つのは、母子を海の底へ誘った「悪」を徹底的にやっつけたいという気持ちからである。

    その気持ちは尋常ではない。

    そして年を経るに連れ、次第にその「悪」についてわかってきた。

    若い頃は自分の気持ちは理解されないと考えていた。

    手術すれば治るという診断書つきで医者に合格しても、喜んだのは回りの親戚。

    自分には生きる闘いが再び始まる、やれやれという気持ちだった。

    現在も同じで続いている。

     

     

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